【「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」所感】 詩(し)から詩(うた)へ  

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バンドリシリーズのバンド「MyGO!!!!!」を主軸とした2023年6月末から放送しているバンドリシリーズの最新アニメです。
バンドリは2期から3DCGアニメとなり、それを理由に敬遠した人も多いはず。しかしながら、手書き作画に引けを取らない表情描写に3DCGだからこそできるカメラワークと、敬遠するには勿体ないくらいアニメとしての魅力を引き出しています。
バンドリシリーズといっても主要な人物はこの作品から初登場するMyGOのメンバーなのでこの作品単品で見ても大丈夫です。

バンドモノといえばライブシーンなのですが、僕が好きなライブシーンはアニメに限定すると、涼宮ハルヒ(God Knows)やけいおんAngel Beatsのガルデモ、少し新しいものだとSELECTION PROJECTのGapsCaps、覆面系ノイズやぼっちざろっく、まだ未放送ですがガールズバンドクライのトゲナシトゲアリなどがあります。
そんな中、「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」の10話のライブシーンは僕の中で過去最高を更新しました。作画が良いとか音が良いとか、そういう要所的なものではなく、そのライブによって観ているものに何が訴えられているかが一番伝わってきたシーンでした。画面に映っている観客の一人になったかのような錯覚さえ覚えました。

なので10話まで見てください。アニメは3話で判断理論とかどうでもいい。というかMyGOは初回に3話連続放送とかしてます。今からでもアマプラで観られるので暇なオタクは全員見てください。

 

 

BanG Dream! It's MyGO!!!!!」を既に観ている人はここまで読み飛ばして大丈夫です。

続きからはネタバレ含む所感となります。

内容はアニメと同じですが、アプリゲーム版ストーリーにも言及しています。

 

 

長崎そよについて「人のことばっかり考えてるふりしてるけど、本当は自分のことばっかり考えてるところとか」

推しです。好き。

MyGO!!!!!のメンバーは全員とても人間らしい複雑な心を持っていて、各々に語るべき点があると思うのですが、一番魅かれたのはベース担当の長崎そよでした。世界の見え方、自分の居場所、そういったものに対しての姿勢に共感してしまったからです。

 

アニメの序盤のエピソードの時から、彼女のどこか陰のある印象に既視感がありました。それは同じくバンド物であるOVERDRIVE作品の『キラ☆キラ』の主人公、前島鹿之助です。

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彼は自分が生きている世界に無関心で、誰かと関わっていたいという願望はあるものの、他者に深入りすることに強く抵抗があり心に蓋をしています。原因は長崎そよと同じく、両親の離婚という家庭事情にありました。

物語は冒頭から付き合っていた彼女と別れるシーンから始まるのですが、そこで鹿之助の性格について言及されるシーンがあります。

この後「すごく優しい、優しいんだけどね……」とフォローもされますが、心がないとバッサリ言われてしまいます。

この中に「人のことばっかり考えてるふりしてるけど、本当は自分のことばっかり考えてるところとか」という指摘がありますが、これは長崎そよという人物に鹿之助の既視感を覚えた要因、そして長崎そよが作中でも糾弾される指摘でもあります。

これは自己中心的という意味よりも、利己的であるという意味が近いでしょう。

 

 

この指摘はアニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」の後半でもされますが、序盤のエピソードからその片鱗が見えます。

それが彼女が時折みせる指を触る仕草です。

心理学の分野では、会話をしている際に無意識に爪や指を弄るという仕草は相手への関心が少ないことを表すそうです。または他の考え事をしながら会話をしていることが多いそうで。とはいっても、彼女は相手に対して失礼な態度を取っているわけではありません。むしろ会話をしている相手には良い印象を与えたいので、声のトーンや表情に気を遣っています。しかしそれは繕っているものであり、癖という形で表面上に出てしまっているのです。

 

愛音や立希と新しいバンドについて話している時に、そよが頭の中で考えていた事。これは8~9話で明かされていきますが、それは元々組んでいたバンド「CRYCHIC」の復活でした。正確に言えばCRYCHICという居場所へ帰りたいという欲望があり、その為に燈を見つけてきた愛音をきっかけに元のメンバーを呼び戻そうという魂胆がありました。これだけをみると彼女は親切な顔をしながら他人を利用して自分の目的を果たそうとする腹黒いだけの人物に見えますが、その奥には根深く拗れた感情があります。

 

幼い頃に両親が離婚し、一見狭そうな一軒家から高層マンションの広い家へと引っ越しをしています。長崎家にどういう事情があったかは明確にはされていませんが、彼女自身は環境の変化というものに強く抵抗をした感じは見受けられませんでした。ノートに書かれた自分の苗字を書き換えながら部屋の証明を見上げるシーンでは名残惜しさがあるようにも見えましたが、高層マンションでの暮らしもすぐに受け入れていたようです。あまり我儘を言わない子供だったんじゃないでしょうか。

進学先は母親の希望でお嬢様学校へ。入学式では当然慣れてはいないはずの「ごきげんよう」という挨拶も一呼吸おいてからしっかりと返しています。興味が無さそうな部活の見学の誘いも笑顔を顔に張り付けて同意しています。

これらから、彼女は要領が良く適応能力が高いことが想像できます。他人の顔を常に疑って空気に流されやすいという性質も。
このような性格になったのはおそらく家庭環境でしょう。彼女は愛情に飢えていました。父親が居なくなったことでとても寂しい思いをします。それでも、母に迷惑をかけず、必要とされる行為を続ければいつか寂しさは消えると信じていました。その影響からか彼女は自分の心を閉ざして「みんなにとって必要とされる優しい自分」を演じていくようになります。



そんな中ある日、祥子からの勧誘によりCRYCHICというバンドのメンバーとなります。流されるような形で参加するも、次第に自分の居場所として大切なものになっていきます。家族や学園という居場所では、"必要とされる優しい自分"になった所でいつまで経っても寂しさは消えませんでした。けれどCRYCHICという居場所では、不思議と彼女の寂しさは和らいでいきました。ここでなら自分の居場所としてやり直せると信じていくようになります。

バンド内でも彼女は"必要とされる優しい自分"として振舞っていきます。それは決して計画的で腹黒い行為ではなく、自分の居場所を守っていたいが故の防衛行動でした。

 

時を進めて7話の迷子メンバー初ライブ後、彼女は感情を爆発させます。CRYCHICとしての思い出の曲『春日陰』をアドリブで演奏してしまったこと、それ自体よりも演奏したことで観客として来ていた祥子が泣きながら会場を出てしまうことにショックを受けます。燈と立希とは関係を取り戻し、残るは祥子と睦月を呼び戻せば念願のCRYCHICの復元=自分の居場所の復元が叶ったわけです。しかしそれが叶わず決定的に失敗となってしまうきっかけを作ってしまったと彼女は察してしまいます。

「なんで春日陰やったの!」ってセリフがまた他責的で良いですよね。燈が詩を読み始めて、そこから演奏へ……といったライブの流れがあったものの、中断しようと思えば中断できたはずです。けれど彼女にはそれができない。いつも周りに適応して生きていた彼女にとって、一番の目的とその場の空気の破壊を天秤にかけた時、咄嗟に選んでしまうのは後者であり、周りに合わせる事でした。


9話で、どうにか会うことができた祥子に対して『春日陰』を演奏してしまったことの謝罪をし、再びCRYCHICとしてバンドをやり直そうと説得をしますが真っ向から砕かれます。それでも食い下がる彼女に祥子が放った言葉は「貴方、自分の事ばっかりですのね」という強烈な指摘でした。CRYCHICというバンドを復活させて皆で笑顔になること。確かにそんな未来があるのなら皆にとっても一番幸せなのかもしれません。ですが今の段階では自分の居場所が欲しいという、そよ自信の願望でしかないのです。それを他人に押し付ける行為は利己的であると言われてしまいます。

祥子も祥子で、自分で立ち上げメンバーを集めたCRYCHICを説明も無しに解散させるという利己的な行動をしているのですが、そよと異なるのは利己的である自覚があることです。メンバーに相談もせずに解散を決めていますが、その責任を全て背負う覚悟はあるように見えます。そよに向けて放った糾弾は自分へ向けての言葉でもあるように聞こえましたね。もし自覚がなく新バンドのムジカを結成までしてるならどんな事情があるにしてもまあまあやべー女です。

 

 

この後、彼女は迷子メンバーと距離を取るようになります。それはCRYCHICの復元が絶望的になった為に燈と立希を繋ぎ留めておく必要が無くなったからというのもありますが、自分の行為が利己的であったことを自覚してしまったことが原因だと思います。

更に彼女は迷子メンバーに対して、もはや"必要とされる優しい自分"を演じることをやめてしまいます。自分がしてきた行為が利己的であった事を戒めるかのように。

 

 


利己的である。それはとても自分勝手で戒めるべき行為かも知れません。
けれども僕は、誰かに親切をすることや誰かを想う行為には必ず自分も救うという独りよがりな気持ちがあると思ってます。自分が相手を大切に思っているという気持ちを伝えたい、相手が泣いていると自分が辛い気持ちになるから手を差し伸べる。それはどこまでも自己満足な行為です。たとえ相手が本当に嬉しい気持ちになるのだとしても、根幹には自分を救済したいという気持ちがあります。

ですがそれは責められる行為だとは思いません。利己的であってもその結果が相手を救う行為になる人。誰かが悲しむことを辛いと思える人。そういう人の事を「優しい人」というのではないでしょうか。利己的であることを自覚すること。それでも誰かを想うことができるのなら、それは正しい事なんじゃないかと思っています。

彼女は10話で愛音にしつこく詰め寄られても、途中で振り切ったり追い払ったりせずに家に招き入れています。CRYCHICの復元が不可能になり、どうでもよくなってしまったのなら愛音に対して厳しく当たってもいいはずなのに。昔から愛想よく生きてきたというのもありますが、誰かが悲しんだり苦しんだりしている姿を見ることに強い抵抗があるのかもしれません。他人を傷つけることが怖いのです。他人を傷つけることで自分の心が傷つくことがとても怖い。たとえ自分の心を守るためだとしても、他人が辛い目に合う事に抵抗がある人というのは、やっぱり凄く優しい人なんだと思います。

 

利己的であること自体は罪ではありません。それを自覚することが大切なんです。

自覚することで初めて他人の心に踏み入ることができるのだと思います。

 

10話ライブシーン感想「音楽の力で泣いていたわけじゃないのかもしれない」

「昔の自分はただ騙されていただけなのかもしれない。ステージの演出とか、有名なアーティストが目の前で歌ってるとか、みんなが褒めてるとか、曲がヒットしてるとか、そういういろんな情報のせいでなんとなくいい曲のような気がして涙を流していただけで、音楽の力で泣いていたわけじゃないのかもしれないって」


花井是清(『MUSICUS! 』OVERDRIVE )

MUSICUS!をプレイしてから、音楽が持つ力というものについて深く考えた時期がありました。上記の花井是清のセリフを信じるなら、今回のMyGO10話にしても結局のところ迷子メンバーたちの思いや葛藤に対して感動しているだけで「詩超絆」という曲にはなんの力もなくて、ただ背景にある物語に感動しているだけなのかもしれません。

僕の場合も音楽を聴くたびにこのセリフが頭を過ぎり、背景にある物語に感情を流されてなるものかと抵抗していた事もありました。ですが、とあるライブで呆気なく泣いてしまうという体験をしています。結局のところ、音楽とその背景にある物語は切り離すことはできません。音楽を生み出している人間が存在している限り、どうしてもそこに物語は生まれます。そんな物語を音という形で脳に叩きこむのが音楽です。

 

 

 

作中でのライブハウスの観客にとっては、メンバーの事情なんて知る由もありません。

10話前半で燈は一人でライブを行っていました。ライブといってもの朗読で、そこに旋律は有りません。ライブハウスで朗読を行うというものにはポエトリーリーディングという名前がついていて、実際にあるアート形態だそうです。

これを見た"おもしれー女の子"が好きな楽奈は朗読ライブに飛び入り参加し、ギターの旋律を添えます。その後、楽奈が立希を強引に引っ張ってきて旋律にドラムというリズムが加わります。それでも、この時点ではまだの朗読であり、うたではありません。

最後のライブシーンで愛音とそよが揃い、が旋律となりうたへ変わっていく。その瞬間に初めて新しいバンドが生まれるという物語。それが作中の観客たちに伝わって、サビに入る瞬間に歓声が上がります。

 

 

ここまでは音楽を聴く側にとっての「音楽の力」でしたが、音楽を奏でる側ではどうでしょうか。

 

観客の中にそよの姿を見つけた燈は、その手を引いてステージへ愛音と共に連れていきます。そよはどうしても他人を傷つける行為ができないので、流されるままステージでベースを担ぐことになります。

 

そして彼女がベースを弾き始めて5人の音楽が始まります。音楽の良い所は一度奏で始めたら終わるまで強い意志がないと止められないということです。ましてや長崎そよという人物がこの音楽を自分の意思で止められるはずがありません。こうして、そよは燈の言葉を逃げ場のないところで聞くことになります。

 

 

『こんなふうに離れたくなかった』『すべて消えてしまったのではないのなら戻りたい、伝えたい』『ゆるされるなら僕はあきらめたくない』

 

燈の言葉は剥き出しとなった心の叫びでした。それは燈の叫びでもあると同時にそよの心の叫びでもありました。"必要とされる優しい自分"という殻の中でそよが秘めていた心の内、それを目の前で訴えられるのはとても痛い事だと思います。だけれど燈は語りを止めません。何故なら皆が音楽と奏でているから。そよがベースを弾いているから。繰り返しになりますが、音楽というのは奏で始めたら中々止められません。自分が楽器で音楽を奏で続ける限り、心の叫びは続きます。そよがベースを弾くことは、自分の心の叫びを解放することと同義でした。

 

ライブ中、燈は最後まで観客の方ではなくバンドメンバーの方を向いて歌います。それは彼女の心の叫びはバンドメンバーへのものであることが理由の一つですが、もう一つは各メンバーが奏でる楽器の音から響く各々の心の叫びを一身に受けるためでもあります。本当はアンプから音が出てるので歌声が出ているのは全く違う方向なのかもしれないし、楽器の音に人の感情が乗る事なんて無いのかもしれません。ですが旋律が無いと言葉は詩になりませんし、旋律に言葉がついて初めて詩になります。この相互関係が成り立っている限り、きっと音楽には人と人を結ぶ力があるのだと思います。

 


あとは表情について。

「詩超絆」を歌う5分には無駄なシーンが一切ありませんでした。3DCGは細かい表情や仕草などは苦手という先入観がありましたが、このライブシーンではどのシーンでも妥協がなく心を打つカットばかりでした。立希が泣いていることに愛音が気づいて笑いながら涙を流し、そよも項垂れて涙を零してしまう、あのサビ前の一連の流れで僕自身も泣いてしまいました。楽奈は相変わらずエゴのぶつけ合いを見て楽しそうでしたが、今回は特に笑っている表情に力が入っていて良かったです。

そよが感情を爆発させながら殴るように弦を叩きつけているところがお気に入りポイント。

 

 

終わりに 

「……少年。ベースってなんだと思う?バンドがもし一人の人間で。ヴォーカルが頭で、ギターが手、ドラムスが足だとしたらベースはなんだと思う?――ここだよ少年。心臓だ。わかる?君がいなければ私たちは動かない」 

神楽坂響子(『さよならピアノソナタ桜井光) 

10話のライブ後、長崎そよは『必要とされる優しい自分』を演じるのをやめて、少し棘のある言葉を言うようになりながらも、MyGOというバンドの中で面倒見の良いママのような存在になっていきます。そよがいないと次のライブの準備もまともに進まなかったのではないでしょうか。

ベースの音というのは他の楽器に埋もれがちですが、いざベースの音源だけを取り除いて聞いてみると、なんだか纏まりのないフワフワした音楽になります。

勿論、他のどのパートも欠けてはいけませんが、バンドにとってベースというのは心臓部であり特に大切な存在です。

 

バンドにいてくれること、存在してくれていること。そこに在って居てくれることは決して当たり前の事ではありません。

「ありがとう」という言葉は漢字だと「有難う」と書きます。

有る事が難しい、在る事が難しい。在ることが当たり前ではないからこそ、人は感謝をする時に「ありがとう」と伝えるのです。

言葉で伝えられないことでもうたでなら伝えられることがあるかもしれません。

それでも、言葉として旋律に乗せなくても伝えられる、伝えなければいけない事はあります。

12話のライブシーン後、「ありがとう」という言葉をきちんと燈に伝えられた彼女は、これからはきっと心に蓋をすることなく、自分の居場所を自分の心で生きていけるのではないでしょうか。