「朗読劇 白昼夢の青写真 CASE-_ 誰が為のIHATOV」所感  

以前書いたこの記事の朗読劇公演の感想です。

【noteリンク】「白昼夢の青写真」朗読劇公演が開催決定 『観客は白昼夢を見て青写真を描く』 - 赤い帽子の隠し棚


実は皇居の近くを歩くのって人生で初めてだったんじゃないかな。都民じゃないし用も無いしな……。

想像よりもコンパクトな会場で、観客席とステージの距離が近くて驚きました。
ホール内の構図としては、ホール前方のステージの中心に大きなスクリーンが設置され、その両脇に演者が挟むように立ち、朗読されるシーンに合わせてノベルゲームでいう所のCGや立ち絵がスクリーンに表示される仕組みでした。どうやらこの朗読劇のためだけにノベルゲームとしてのスクリプトを組み上げて、演者の朗読に合わせて演出を進めていく手法だったそうです。
この演出のおかげで、話しているキャラクターの表情が分かったり、背景などで状況が分かりやすいのも良かったのですが、視線を演者とスクリーンとどちらに向けるかを迷ってしまう場面がありました。鬼気迫るシーンでは演者の方を見ていたかなと思いますが……目を瞑った方が物語に入りやすいと感じた部分もあったので難しいですね。

演者の演技も見事で、生の迫力というものを肌で感じました。特に海斗に初めて声が付いたことで、原作のゲームでは目で読むことしかできなかったモノローグが音声として耳に入ってくるのは新鮮でした。読むことで目から入ってくるモノローグというのは自分と海斗を重ね合わせる感覚が抜けきらないのですが、朗読として耳から入ってくるモノローグは、自分ではなく完全に分離した海斗という人物が語っているという事が強調されるため、白昼夢の青写真という世界を俯瞰した視点で楽しむことができました。

 


続きからはネタバレを含む感想

 

 

 

楽園の少女について

今回の「CASE-_」における新キャラクター、そして事件の渦中の人物となったキャラクターの正体については公演前から予想がついていました。
昨年の冬に行われたswitch版の発売記念オールナイトイベントの際に、プロトタイプとしての「CASE-_」の冒頭を既に観ていたのと、ディザームービーで出た「1人の少女」というキーワードからして仮想世界に移住した被験者の1人なのは想像がつきます。

前回の記事でも少しだけ書きましたが、原作のプロローグが海斗の語りで始まることから『白昼夢の青写真』は海斗が語り聞かせている物語と解釈しています。
つまり、この1人の少女は『白昼夢の青写真』をプレイしているプレイヤーとそこまで相違ありません。この1人の少女は、あり得たかもしれないプレイヤーの1人でもあるのです。

そういう経緯もあり、僕は朗読劇冒頭から「1人の少女」=稟の側の目線になって観賞していました。はっきりいって、稟の理想郷を壊そうとする遊馬や海斗を味方として見ることはできませんでした。そもそも、稟の行為は罪ではないのです。今回の事件は事故でもあり明確に誰の所為だと言えませんが、あえて責められるべきというならば遊馬研による仮想空間の管理の甘さだと思います。

 

「『白昼夢の青写真』科学考証・企画協力のミスターフジノと語り尽くす会」

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こちらの配信でも1通のお便りを元に話されていました。(3:06:20あたり~)仮想空間の中で危険な思想や、悪意を持ってしまう人がいたらどう対処するのか、世凪の世界に共感する人を結果的に増やしている海斗の語る行為は思想の優性主義なんじゃないか、などなど。
今回のケースでは、稟は悪意を持っていたわけでもなく、危険な思想を持っていたわけではありません。むしろ世凪の物語に共感し、世凪の幸せを願っていました。ただ、人よりも共感能力が強かったのが原因で仮想世界にまで波及してしまったという事故でした。
世凪の仮想空間構築能力について海斗は「高すぎる共感能力」と捉えていました(TIPS)。もしかしたら、稟にも世凪のような空間構築能力が発芽していた可能性があったかもしれせん。いずれにしろ、たまたま遊馬達の想定を越えた仮想空間内のバグ因子となってしまったのが稟です。今回の被害者です。決して加害者ではありません。首とか絞められてますしね。


本編の世凪、そして仮想世界にいる仮初の世凪はどちらも海斗から見た海斗の視界に映る世凪でした。真の世凪=神視点による俯瞰された世凪というものは「白昼夢の青写真」内にはどこにも存在せず、プレイヤーには認識することはできません。これは緒乃ワサビ氏が仕掛けたこの作品の皮肉の一つでもあります。
それでも、想像することはできます。この作品をプレイした後にCase1~3のヒロインで誰が一番好きかという質問は度々行われていると思いますが、その際に物語内のシーンだけで判断している人は少ないはずです。もしこのようなシチュエーションだったらこういう行動を取るだろうな、と想像をします。僕だったら彼女にするなら凛です。性格が面倒なのいいじゃん。
プレイヤーごとに想像する内容は異なります。だからこそ、すもものような明るいオタクに優しいギャルみたいな世凪が好きな人もいれば、優雅で大人びて余裕を見せるオリヴィアのような世凪、凛のように面倒で内心何考えてるのか分からない世凪と、好きなヒロインが分かれるわけです。

稟は凛に共感して想像したのです。僕と違うのは、自分と凛が関わるとしたらという自分の主観での想像ではなく、もし凛だったらこの世界でどう生きるのか、という凛の主観としての想像だったことです。

問題があるとしたら、自分の境遇や名前の一致によって自分と凛を重ね合わせすぎた事でした。凛だったらこうするだろう、という想像が段々と自分だったらこうするだろうというものに変わっていく。エピローグ冊子によると、稟は凛の物語を暗唱して自分で自分に語りかけるような行為もしていたそうです。一種の自己催眠とも言えます。これは共感する行為を飛び越えて、依存する、縋る行為です。稟が間違えてしまった部分はこの縋ってしまった部分かもしれません。(稟は基礎欲求欠乏症を発生しているため"自分"というものを現実で消失しているのなら縋る行為は許されるのかもしれませんが…)

 

稟は海斗が語った凛の中に、世凪が幸せになれるであろう世界を見た。想像した。これは『白昼夢の青写真』をプレイした我々プレイヤーと同じです。稟の共感して想像する行為自体を否定するのは自身の否定にも繋がります。

 

 

「世凪を物語の人間にするな」

今回の朗読劇の中で気になった海斗のセリフです。

物語として世凪を語ってきたのは海斗自身ではないでしょうか。物語の人間とする事に覚悟を決めて、それを伝えるのが自分の役目だと海斗は納得していたと思っていました。

人間は身体的に精神的に死んだとしても、物語として生き続けます。

それは語った人の思うとおりに故人の情報が受け手に伝達されるという意味ではなく。

誰かの語りを受け取った人が見出したその人の物語を、再び他者へ紡いでいくから人間は物語として生き続けるのです。

海斗も、そんな価値観を世凪のおかけで抱いていたはず。だけども実際に仮想世界という空間で自身が見たかった理想の世凪が改変されていく姿には耐えられなかったのでしょうか。

 

それでも物語の終盤、「ちょっとだけ強くなれたよね」と世凪にかけられた言葉に海斗は頷いていました。

その後の楽園の少女=稟と海斗の会話を見れば、世凪の物語を他人が誰かに語るという行為に対して解釈というか、態度が少し変わったように思えました。

それが『強くなった』かどうかを言えるほど僕は物語に対しての姿勢が真摯であるわけではないのですが、少なくともしっかりと向き合っているように思います。

 

終わりに

本当は朗読劇の感想なんてTwitterで書いたので充分だったんですよ。生の人間の演技、そしてその鮮度が保たれている状態で感想を書いたので。

しかし、楽園の少女=稟が行ったこと。自分を世凪に重ねたこと自体を糾弾するような感想がたまたま目に入ってしまったため、その反論としての文章を書きたくなりました。

以前のトークショーで緒乃ワサビ氏もフィクションと現実の自分の距離感という物は大事と語っていました。他者(虚構)の物語に夢中になるのは良いことだが、決して縋ってはいけないと。縋るという事は現実からの逃避です。まるで現実にはない希望(優しさや暖かさ)が虚構にだけ存在しているのだと信じて虚構の物語に縋るのです。

これは過ちです。いや、縋ってしまう人も本当は気が付いているのに気が付かないフリをしているのかもしれませんが、虚構の中にある希望はかつて現実の中で感じた希望だったはすでず。虚構は現実の中に内包されています。虚構の中での希望は自分の中でしか開花しないのです。故に現実の自分の中にかつて存在した希望が無ければ虚構の希望さえも見つけることはできなかったはずなんです。

 

稟のように『誰かの物語に対して、これは自分の物語だ』と思ったことは過ちではありません。自分の物語を捨てて、誰かの物語を歩もうとしたことが過ちだったんです。

誰かの物語が自分の物語のように思えた、ならばその自分の物語の続きを歩むべきなんです。だって誰かの物語に優しさがあると感じたのなら、自分の物語にも優しさはあったはずなのだから。

それがフィクション・物語に対する真摯な姿勢と、自分はそう思っています。